No Joy In Mudville

なるべく続けたい

奥多摩

2018年9月12日。Oneohtrix Point Neverの来日公演を観るため、前日の夜から夜行バスに乗り込み、当日の早朝に東京入りした。まだ白む最中の新宿駅では、疎らながらも既に通勤者の往来があった。さて、公演までどう過ごしていようか。その場で暫し考えを巡らせたのち、僕は奥多摩へ向かうことに決めた。

分からないなりに東京の電車を乗り降りし(この時に初めて青梅の読み方を知った)、奥多摩駅に到着した。駅周辺の町並みには目もくれず、そのまま奥多摩湖行きのバスに飛び乗った。バスの中は、僕と運転手を除いて誰もいなかった。誰もいないバスに乗るのは久しぶりだった。町を抜け、山道を上り、トンネルを抜け、道中のいくつかの停留所にも一切停まらず、山道を上り、トンネルを抜け、また山道を上っていく。そうしているうちに、まるで何か隠し事をしているかのような、後ろめたさや不安といったものが徐に湧き上がってきた。「こんなド平日の朝っぱらから、若者が一人バスで山奥にだなんて、一体全体如何様な野暮用で? 死体でも棄てにきたのかい?」後ろ左半分だけの運転手が、僕の脳内にそう問うてきたような気がした。「いいえ、ただの暇潰しです」脳内で返事をした。

奥多摩湖駅に到着した。山に切り開かれた、大きな水溜まり。曇天と湖を囲う山々の影響か、湖面は極端な緑色のコントラストだった。天端を歩く。1往復、2往復。この直線が何だか心地良い。きっと、直線は迷うことがないからだ。朝早いお陰か、人のみならず車の影もほぼなく、限りなく静寂に近い空間となっていた。静寂という概念が、形を成して表れたかのような。先ほど水溜まりと書いたが、僕の中では、この水溜まりという言葉が、湖、そしてダムという言葉とイメージ上では近しい位置にある。共通項を多く含むが、決してそれそのものではない、ニアリーイコールのような関係性。そして、自分の中の静寂という概念? 空間? の一つの典型が、この目の前に広がっている光景なのだと言える。風のない日の水溜まりは、鏡のように凪いでいる。器に入った水は、水という性質を無視した存在である。昇発はなく、下行もない。器を替えたり、よほどの強い横揺れなどない限り、それは頑なに形を変えない。そんなイメージ。それに対して僕は静寂だと思う。だからこの空間が好きだ。更に加えると、この空間に寄りかかっていると、僕という自我も何だか静寂という境に至ったような気がする。つまり、この時間が好きだと言い換えても良さそう。この空間、この時間。帰りのバスの時間をも忘れた――というフリをしながらも、出来るだけ、出来るだけ遠くへ意識を飛ばしていった。

別に東京に行きたい訳ではなかった。彷徨っているが、迷った訳じゃない。多分そんな感じだったのだろう。