No Joy In Mudville

なるべく続けたい

ぼくだけの失敗 / 金の成る文章

乾いた笑いがこぼれた。

まさかまさかである。三日坊主どころかたった一日しかもたなかったとは、一体誰が予想出来たであろうか。かの投稿からちょうど1年経った訳だが、今となっては、なぜ改めてこちらでブログを始めようとしていたのか、キッカケみたいなものがまるで思い出せない。自分の性格を考えると、恐らく当時は書きたい内容が幾つかあって、それらの前座として先ずは『挨拶あるいは表明』にあたる文章を書いたのだと思う。しかし蓋を開ければこの通り。いやはや恐れ入った。自分の計画性継続性一貫性のなさに、嫌気を通り越して惚れ惚れしている本日は4年に一度の閏年2月29日。令和初の閏年。まあだから何だって話だけど。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////

SNSがここまで大衆化した現代では、ブログという形式なんてもう黴臭を帯びたものでしょって風に捉えてる人も多かれ少なかれいるのではないだろうか。twitter等と共有しやすいこともあってか、ここ数年の間だとnoteが広く普及されたように肌で感じている。noteに対しての僕の印象をあえて述べるなら、あれは自分の文章を、ひいては自分自身をコンテンツとして切り売りしているだけ。過去のブログもそうと言えばそうなのだが、こちらはニコニコのブロマガと同じ要領で、有料化が可能となっている。文字通り、自分の知識や経験が商品なのだ。そこが自分にはどうにもしっくりこない。虫の居所が悪いというか。
いやそもそもだ。そもそも、長い文章自体が時代にそぐわないのではないか。長い文章ならば、長いなりの商品価値が付随されなければならない。そうでない長文は淘汰されるべきだ。そのような価値観が流布されているような気がする。ブログのようなプライベートな文章は、120文字までのツイートに成り代わった。ここからは完全に僕の肌感覚による印象でしかないのだけれど、この社会を囲う時間というのは止めどなく、仮借なく流動し、その速度はみるみる上昇していく。瞬く間に、上限もなく。そのスピードに並走するためには、徒に時間を消費するなどもってのほか。人々はその事をとてもよく理解している。彼らは賢い。分かる。とても分かるよ。自分のことのようによく分かる。
それでもふと、人は何をそんなに急いでいるんだったっけ、という疑問が頭をもたげることがあるのだ。何をそんなに急いでいるんだっけ? 生き急いだ先に何があるんだっけ?